慟哭

 豪雨の中を彼は歩いていた。雫が撥ねあがり、目に映るもの総てが、白く霞んでいる。何もかも不確かで、身体に降り注ぐ雨だけが、まだ彼の意識を保たせていた。当所無く歩く。何故歩いているのかも、解らない。ただ佇む気にはなれない。それだけだ。確かな意志など何も無い。ただ辛くて、苦しくて、なのにそう感じる理由を何か持っているわけでもなかった。できればこの白濁した景色の中に埋没してしまいたい。そうなれば楽になれるのだと、不確かな笑みが口許に浮かんだ。しかしその笑みも単に筋肉の痙攣に過ぎない一過性のものとして、曖昧なままに消える。結局は何も無い。だから、歩き続けた。何も無いままに。

 いつだってそうなのだ。何かを持った試しなど無い。何かを望んだ覚えも無い。流されるままに、流れて行く。それが、辛いのだろうか。苦しいのだろうか。何の意志も無いままに、それでも彼という意識だけが、ここに在るのだ。

 無ければいいのに。ふとそんな事を思う。本当に何も無ければ、辛いとか、苦しいとか、そう考える意識すら存在しないのに。このまま霞んで消えてしまっても、世界は何も変わらない。この愚かな意識を惜しむ者も、哀しむ者もいはしないだろうから。あればあったで、不条理な負荷を周囲に与えてしまうのだから。ああ、無い方が良い。消えてしまえばいい。

 なのに自らこの意識を断ち切ってしまえる程の、意志の力も無いのだ。だから未だに諾々とここに在る。愚かだ。なんて馬鹿らしい。今すぐ天の裁きがこの上に落ちれば、そんなに良い事は無い。

 ああ、愚かな思いばかりが去来する。何一つ形に成らない、無いもの強請りばかりの――



 すぐ耳許で何かが大きな音をたてた。驚愕の余り、身体が竦む。自動車だった。視界が悪い為、彼がいる事に気づかなかったのだろう。彼のほんのすぐ脇を、水飛沫を上げながら自動車が通過したのだ。

 一歩間違っていれば、撥ねられていた。そう認識するや身体が震えて止まらなくなった。消してしまいたいと、思っていた筈なのに…死ぬのは恐ろしかった。こんなに無駄な存在なのに。

 そして気づく。何も求めていないなど、嘘に過ぎなかった。それを認めてしまうには、あまりに罪深かったから、気づかぬ振りをしたのだ。今、こうして当所無く彷徨う真似をしてみたところで、行きつく先は、既に己の中の想定されているのだ。
 救いを、求めていた。そして自分が救われる場所も知っていた。だが、こんな愚かな者が救われていい筈が無いという思いが、わざとそこを避けて通っていただけだ。
 馬鹿馬鹿しい。本当に愚かだ。なのに意識は既にそこへ向かっている。身も心も、声を上げてそれを求めている。慟哭が身体を揺さ振る。
 あの男の許へ行かなくては――


 通い慣れた道の先、通い慣れた場所が見える。愚かにもまだ躊躇って入口で佇む彼の気配を察したのか、その場所の主がふいにその戸を開けた。
 降り頻る雨の中、その存在だけが確かだった。滅多に見せる事の無い、心配気な面持ちで、男は彼を見つめていた。


 京極堂は関口をその手でもって、彼の求める救いの場所に引き入れた。