晴れた夜
其のニ

 珍しく晴れている――ただそれだけの理由だった。それを特に感じてしまったのは、勿論七夕であったからに他ならない。雨の多いこの時期、多くの人が星空を願うこの夜に晴れている事は稀である。そして何処かであの遠い日の事を思い出していた――


 星座の話を、関口は不思議そうに聞いていた。だがこの話をするのは実はこれで二回目なのだ。尤も曾てその話をした時の事を、彼が覚えている筈は無い。覚えていられては困ると、京極堂は思った。
 その日泊まる旅館に着き、用意されていた部屋へと通されると、そこには酒が用意されていた。もう随分と先程の居酒屋で飲んでいるのだが、部屋の一面に大きくとられた窓からは見事な星空が覗き、星見酒も悪くないと思う。
「珍しいな、京極。まだ飲むのかい?」
 関口の問いに京極堂は窓際に酒とグラスを持って移動しながら、相手の顔を見ずに言った。自分が今、何を考えているのか、どうせ解る筈は無いと思いつつも、隠さずにはいられない気持ちの現れだった。
「たまにはいいさ。君はもう休むかい?」
 そう訊きながら、持ち運んだグラスが二つである矛盾には目を瞑る。窓に映った己の表情が歪んで見えた。窓際に設えられた座卓に手にしたものを置き、窓を開けた後に腰を下ろす。そよとした風が流れ込んできた。
「いや…僕も少し飲もうかな。たまにはね」
 関口はそう言うと京極堂の向かいに座った。グラスになみなみと注がれた酒を少しづつ進めながら、関口は思い出したように言う。視線は星空を向いていた。
「さっき…星の話で言っていた――あれ、何て言ったっけ?」
 京極堂は小さく溜息を漏らすと、一口酒を含んだ後言った。
「もう忘れたのかい?本当に話甲斐の無い相手だよ、君は。歳差運動の事を言っているんだろう」
「悪かったね、それだよ。織姫が北極星になるって?」
 京極堂は瞬く星の一つに視線を向けた。夏の大三角の一角。
「歳差運動というのは地球の地軸の首振り運動の事さ。地球の自転軸は二万六千年で一周する首振り運動をしているんだが、軸の差す方向が円を描きながらゆっくり動いていくから、北極星もそれに随って次々に交代する。移動量はだいたい二千年に三十度。五千年前にはりゅう座のアルファ星ツバーンが北極星だったように、今から一万三千年後には織姫星ベガが北極星の役割を果たす事になる。ちなみに今現在の北極星が再び北極星の位置に返り咲くのは二万六千年後の事だな――聞いているのか?関口君」
 関口は座卓に覆い被さるように顔を伏せており、一体何処まで聞いたのか、いや、仮に聞いていたとしても覚えている訳が無いのは解っていた。
「全く君って人間は…何度同じ事を繰り返せばいいんだ?」
 関口に対し、そう言葉を発しながら京極堂は自分に対して投げた言葉である事を自覚していた。これでは全くあの時と同じ状況ではないか。京極堂はきゅっと眉を顰めると、深く長い溜息をついた。
「七夕の話もするかい?君はあの時ももう聞いてはいなかった」
 あの時――学生だった時分の七夕の夜――あの夜も今夜のように晴れた夜だった。
 事ある毎に、いや何も無くとも彼岸へと逃亡を図る関口に、京極堂――当時は未だその名ではなく中善寺と呼ばれていたが――は、現実に彼を繋ぎとめるのに様々な手段を講じていた。例えば言葉で、言葉で足りなければ、あらゆる処へ連れだし、彼の意識へと呼びかけた。あの夜も、その筈だった。ただそれだけのつもりだった。
 一体何を間違えたのだろう。いや、自分の奥底に潜んだその想いに気づいていなかった訳では無い。だが…滅多に無い晴れた七夕――己こそ、彼岸でないにしても別世界へと足を踏み入れていたのかもしれない。
「君は何も聞いていないし、何も覚えてはいない――」
 酔いつぶれて無防備な姿を晒す関口に、京極堂はそう呟いた。あの夜の事は、自分が封じこめた。決して思い出す事の無いように、関口には強固な封印をし、己には卑怯者の烙印を押した。なのに、今また同じ事を繰り返そうとしている自分がいる。
 京極堂は立ちあがり、窓を閉めると関口の肩に手をかけた。
「風邪をひくよ」
 全く起きる気配の無い関口を抱き起こし、声をかける。腕の中で関口は小さな呟きを漏らしたかと思うと、力無いままの身体を京極堂に預けてきた。酔いに引き摺られ、眠りの淵に立った彼は、自分を覆う男の想いなど、知る由も無いだろう。
 京極堂は一瞬、強くその身体を抱き締めて、僅かに開いた口に己のそれを重ね合わした。


 それでもやはり、自分は同じ事を繰り返すつもりは無い――どちらに転ぼうと卑怯者だ。
 京極堂は小さく溜息をつくと、そっと彼の身体を横たえた。もうじき、残りの二人が帰ってくるであろうという自制が働いたのも確かだった。


「恋愛成就?…戯言だ」
 京極堂は窓の向こうの星空に視線を向けてそう呻く様に呟いた。

あああ、またも中途半端な終わり方…
でも実はうちの話は一本の筋になっているので、ここで決着はつけられないのでした…
いずれ筋から反れた話も書きますので(笑)そしたらいくらでも煩悩まっしぐらに走れるかも(笑)