秘密

 家に帰るのに、関口はどうしようもない程の緊張を漲らせていた。どきどきして、足が思うように進まない。何か新しい事がある時、関口は決まってこのような状態になるのだ。
 関口は一度足を止めると、深呼吸した。もう家はすぐ目の前だ。このまま何時までも家に帰るのを引き伸ばす訳にはいかない。
 今日は初めて家庭教師が家に来る日だった。



「まあ、遅かったじゃないの。先生、見えてるわよ」
 母親の言葉に関口は緊張の為、全身が強張るのを感じた。既に家庭教師は関口の部屋にいるらしい。母親の後からおそるおそる自分の部屋に近づいた。
「先生、お待たせ致しました。漸く帰って来ましたわ。巽、中禅寺先生よ。ご挨拶なさい」
 母に背を押されて、関口はつんのめりそうになりながら部屋に入った。その後ろで母がぱたんとドアを閉めてしまい、関口の緊張は益々強くなる。
「初めまして、関口巽君。――中禅寺です」
 聞こえてきた声に、関口は体勢を何とか立て直しつつ、そろりと顔を上げた。そこにはにこやかには程遠い面持ち――もっとはっきり言うならばこの世の不幸が一気に襲ってきたのではないかと思えるような陰鬱な表情の、何故か和装の男が関口の机の横に配置された椅子に座って関口を見つめていた。
「は、初めまして。宜しくお願いします…」
 ここで恐ろしげな表情の男を目の前にして、本来の関口ならば気絶寸前、失語状態は免れない筈――が、何故かしどろもどろながらも挨拶を口にし、その男の隣の椅子に腰を下ろすなどという事までできてしまったのである。
 全くもって不思議ではあるが、一つの現象をそこに当て嵌めるならば、いとも簡単に説明はついた。だがそんな自覚が関口に在る訳が無い。取り敢えず、中禅寺を目の前にするまで、初対面の人間に会い、勉強まで教わらなくてはならないと考えるだけで、戦戦兢兢としていた関口としては、上々な滑りだしだと考えるだけだった。
 そして何故なのか和装の家庭教師、中禅寺は怯えきった子犬のような関口を目にして、内心にやりとほくそえんだのだ。



「それはさっき説明しただろう。何故解らないのかね」
 溜息混じりに中禅寺に言われて、関口は俯いた。中禅寺の説明は一々尤もで解り易いのだが、如何せん関口の頭はついていかない。いや、きっちりと説明を聞いているつもりでも、何時の間にやらその声やら表情やらに思考を奪われ、ぼうっとしてしまうのだ。これではいけないと思いつつも、思うだけではどうにもならない。
「次に君の成績が上がらなかったら僕はクビかな。僕が家庭教師についてから、成績は上がるどころか、下降一方だ」
 関口ははっとして中禅寺を見た。そんな事は望んでいない。関口はふるふると震えながら、一生懸命に言った。
「ぼ、僕、頑張ります。頑張りますから…」
 中禅寺はふむ、と言って腕組みをすると、関口を見つめながら言った。
「何か問題があるのかい?何時も何処と無く上の空だが」
 問題――と言われて関口は考え込んだ。芳しくない成績の為に家庭教師をつけてもらったのは解っている。そして家庭教師の成果は彼の成績で決まるのも充分に解ってはいるのだ。だから関口は教わった事を活かして勉強しなくてはならないのだが…
「僕…」
 関口は俯いたまま、小さく呟いた。
「関口君?」
「僕、一生懸命勉強します。中禅寺先生にずっと勉強を見て貰いたいんです。だから…」
 必死になって言う関口に、中禅寺は彼を思わず抱き締めたい衝動に駆られながら、ぎりぎりのところで耐え、中禅寺にしては非常に珍しく、微笑んで見せた。
「解った。頑張ろうね」
 そう言って中禅寺は関口の肩を抱いて勇気付ける家庭教師の図を作った。これくらいならば問題無かろう。
 関口は初めて見た中禅寺の笑顔と、肩に廻された腕にくらくらしながらも、こくこくと頷いた。そして思った。――僕、おかしいんだ。中禅寺先生の事ばっかり考えている。勉強しなくちゃならないのに。中禅寺先生といる為には、一生懸命勉強しなくちゃならないのに。
 頑張るとは言ったものの、どうすればいいのか解らず、中禅寺の帰った後、関口は涙を流しながら机に向かった。



「…中禅寺先生」
 次に中禅寺が関口を訪れると、泣き腫らしたような眸をして、関口は中禅寺を見つめた。
「どうしたんだね、関口君」
 関口の様子に些かうろたえながら、中禅寺は椅子に座った関口の前に膝をついて彼を見上げて訊いた。
「何か…あったかい?」
 最初、言いよどんでいた関口だったが、決意したように今にも泣き出しそうになりながら口を開いた。
「僕…中禅寺先生にずっと一緒にいて勉強を見て貰いたいんです。なのに、駄目なんです…全然勉強に手がつかない」
 関口の告白に中禅寺は愕かなかった。実はその理由を既に察していたのである。
「…それは、僕のせいかな」
 そう言って、中禅寺は関口の肩をそっと抱き寄せた。
「ち、中禅寺先生…?」
「他に気を取られる事があっては勉強は捗らないよ。僕は君の望むようにしてあげる事ができる。そうして欲しいかい?」
 中禅寺の言葉に、関口は愕きながらも、肩に廻された腕の優しさにこくりと頷いた。
「大丈夫、心配しなくていい。これで君が勉強する意欲が沸くならば、これも家庭教師の仕事だからね」
 そう言って中禅寺はにっこりと微笑んだ。――内心はにやり、である。

馬鹿話ったら馬鹿話…
ああ、呆れてる?