誘い華



 気がついた時、辺りは闇に包まれていた。漆黒の闇には程遠い、辛うじて己の手許が判断できる 程度の薄闇。何処かに光源があるのだろうと思い、膜のかかったような周囲を見廻した。それはどうも己の背後から伸びるものだったらしい。視線を向けた先に、僅かだが光を放つものを見出す。 それに向かいゆっくりと歩き出しながら、素足から直に伝わる感触にさらさらとした砂の上を歩い ている事を知り、そして後から己が素足である事に気づいた。
 歩を進める内にここは何処なのだろうという疑問が上がり、何故自分はこんな処にいるのだという疑念が上がる。しかし答えを出す前に目指したものが手を伸ばせば届く距離に来ていた。
 それは華だった。発光する華。それだけでも眼をみはるものがあるが、更に己の眼を惹いたのはその華が養分とするように根を絡ませているものだった。
「お、おい。関口君?」
 根は信じ難い事に透明で、それも華と同じく光を放っている。そしてその光に包まれるように、 横たわっている人物の顔を、自分は見間違える筈は無かっ
た。
 彼は眠っているようだった。片膝をつき、もう一度声をかける。だが彼自身に反応は無く、代わりに華の放つ光が幾らか色を変えて瞬いた。
 暫し呆然とその様子を眺め、僅かに片手を伸ばす。指先に触れた花弁はしっとりと柔らかく、冷たい感触を与えた。そしてそれに対して、何故か深い感慨を覚え、それが何なのか理解が及ばない内に、その何某かの感慨に己の身体がさざめく波のように打ち震える。光が眸から入り込み、網膜に焼き付き、更には脳までも犯したような感覚を覚えた。視覚と触覚による情報は己の身体の中で反発し合い、絡みつき、また離れて行くようだ。そしてそれは総て理解の外にあった。
 一度眸を閉じ、華から指を離して情報を遮断すると、次の瞬間にはいてもたってもいられぬ程の焦燥感を覚える。抗いきれず眸を開けると、横たわる人物自体が、今度は発光しているように見えた。吸い込まれるようにしてそれに魅入る。そうしている間に、彼の眸が光を押しやるようにして開かれた。
 光の中にあってそれは茫洋とした闇を映していた。成程、己自身が光にあるのならば、彼が見るものは闇であろう。何故か不思議に納得しながら、その眸に吸い込まれるかのように身を屈めて近付いた。
 それは確かに自分を見ていた。そう感じたものの、瞼を開いた以外は動く事は無い。ただこちらの動きに合わせて、僅かずつ発光の具合を変えるだけだ。何故か彼自身に触れる事は躊躇われ、再び華に手を伸ばせば、それは煌くように光り、何処かに疑念を感じながらも彼の名を呼べば、彼自身が波打つような発光を見せる。だから彼がその名の持ち主である事は確かに思えた。
「関口君…」
 その名を呼びながら、華からその茎に手を這わせる。手に伝わる感触はふくふくとした新芽のそれだった。瑞々しく冷ややかで、簡単に手折れる程に柔軟な感触。
 視線は彼に落としながら、華から茎へとゆっくりと手を這わせ、得られる限りの情報を脳に受け止める。
 これは何だ?
 わざと表面化させた疑問の声を己の内に反復させながら、何時の間にか視覚と触覚とが一体化していくのを、狂おしく情報を摂取しながら感じていた。
 自分は何をしている?そんな疑問の声が上がらなかった訳ではない。だがそれを大きく上回っていたものがあったというだけだ。目の前にあるのは、自分が欲しているものだという事―それだけが、今この状況の確実なものだった。
 これは夢だ。そう思う。己の欲望が見せる夢。そう思いつつも、いやそれならばこそ――指先の感触はいやになる程、生々しく己の脳を支配する。そしてその考えを見抜くかのように、華と一体になった彼は誘いの光を更に強くした。
 幾度めかの声を、彼にかける。その声が徐々に彼を覚醒へと導いていくらしい。今やその眸はしっかりとこちらを見据え、開花する華のように、ゆっくりと透明な根を巻きつけた腕が持ち上がった。そして――堪らず華から彼自身へと手を移動させる。その感触は華よりも現実味を帯びて、身体の奥底へと直結した。
 後先を考える事無く、両の腕を伸ばして彼を抱き締める。しっとりとして冷たく、触れたところ総てから染み入るような感触。伸ばされた腕が背に廻されているのを感じて、その光と溶け合う程に深く身を寄せた。
 もう、何を考える事がある。これは今、己の為だけにここにある。ただ見失う事の無いように、光を発しながら誘い続ける華だ。指を這わせ、頬を摺り寄せ、やっとの思いで口付けると、それは待っていたかのように躊躇う事無く開かれ、柔らかなものが忍び込む。それを己のそれと深く絡ませながら、指も腕も足も、身体の総てを絡ませる。透明な根はいつの間にか己にも伸び、それも彼の一部であるように纏わりついた。
 華は、恍惚とした光を発していた。
 唇を離し、濡れた頬を伝って耳朶を口に含む。
「京極―」
彼が、自分の名前を呼んだ。
 その声を聞いた瞬間、己の内に未だ僅かに残っていた常識というものに照らし合わせた理性が消えた。闇を映していた光の眸は、いまや真っ直ぐに己に注がれている。唇を合わせ、直に肌を合わせ、己を深く突き進めるとこれ以上は無い程にきつく絡み合った。
 いつしか華の根も二人を分かち難いものにするように絡みつき、そうして華は歓喜の光を放った。


 目が醒めると、そこは日常だった。縁側で転寝をしていたらしい。己の欲望が見せた夢に自嘲を漏らすと、そっと溜息をついた。
 身体を解すべく、僅かに伸び上がった瞬間、驚愕が訪れた。目の端に止まったものへ、何とも言えない思いで視線を送る。そこには夢で見た華とよく似た華がこちらを仰ぎ見ていた。
 足許にあった履物をつっかけ、庭に降りるとゆっくりとそれに近づく。夢の中の華の色は覚えていない。いや、色があったかどうか。光に塗れて、ただそれだけで美しかった華――現実の華は僅かにくすんだ紅色で、流れ行く風にその身を任せて見るものを誘うように揺らめいていた。
「現実の華、か…」
 そう呟くと、その華には手を触れる事無く、背を向けて部屋へと戻った。



***終***