予言
――かねごと――


予言(かねごと)@前もって言っておく言葉A約束した言葉

 いつか崩れる時が来ると何処かで予感しながら、それでも尚この時が続けばいいと、願っていたあの頃。



 風は凪いでおり、窓を開け放したままでも苦痛ではない。庭の木々は新緑に光り、時折鳥の囀りさえ聞こえてくる。微睡みを覚えるような陽射しに、読んでいたつもりの本を閉じて眸を閉じた。
 こんな時を持つのは久し振りだった。ふと昔を懐かしむような思いが込み上げる。学生時代、物理的には何も持ち得なかったが、自分の時間だけはこの腕の中に確かに在った。何を想うのも、何を願うのも、自由だった――あの時がこれ程までに掛け替えの無い貴重なものだと、あの頃理解していただろうか。
 心地良い春の午睡。時には現を忘れて平安を思うのも悪くは無い。京極堂は惹き込まれるままに、眠りへと落ちて行った。



「ごめん、起こしちゃったかい」
 所在無さげな眸をして、関口が傍らに膝をついて立っていた。その手に毛布があるのを見て、自分が寝入っていた事に気づく。寝覚めの幾分ぼんやりした頭でゆっくりと起き上がると、関口が小さく笑った。
「中禅寺…そんなに長い事寝ていたのかい」
 中禅寺は顎を擦りながら、尚も含んだ笑い顔でいる関口を不審気に見た。
「何故だい」
「だって、君…頬に畳の跡がついているよ」
 言われて顎に当てていた手をそのまま頬にずらす。微かな手応えがそこにはあった。中禅寺は思わず憮然と言い返す。
「ふん、君なんてしょっちゅうじゃないか」
「だから…珍しい事もあるなあと思ってさ」
 何故だか関口は嬉しそうにそう言った。そして立ち上がると、開いた窓に寄って、外を眺める。
「良い天気だね…転寝するには丁度良い」
「良い天気でやる事が転寝かい。良い天気が泣くよ。だいたい天気が良くたって悪くたって、君は転寝するだろう」
 失態を見られた腹立たしさに、中禅寺は思わず言葉がきつくなる。だが関口はそんな事は一向に構わぬ風に珍しい程穏やかな表情で、ゆっくりと中禅寺を振り返った。
「気分良く眠っていたんだろう?何で不機嫌になるんだい」
 何故――束の間の微睡、その心地良さすら、焦燥感を生むのだろう。あの時は解らなかった。否、予感しつつも、それを見据えようとはしなかった。それはそれで良かっただろう。あの頃の自由は、そのままであって欲しい。
「それとも悪夢でも見ていたのかい?」
 関口は珍しく饒舌だった。気候のせいだろうか。春の陽射しに、儚げな夢から抜け出ていないのかもしれない。
「君じゃあるまいし…」
 中禅寺はそれだけ言うと、関口に背を向けた。何故か、今は何も話したくなかった。つい先程までの転寝は、決して悪夢などでは無かったのに。



 悪夢なら度々、関口に訪れるものではあった。それが酷く彼の精神を蝕み、中禅寺は手を尽くす羽目に陥った。最初は決して自ら望んだ事では無かった筈だ。だが次第に、彼の悪夢に対峙しつつ、惹き込まれるような感覚が、中禅寺を襲った。それでも、彼の手を離そうと考えた事は一度も無かった。それどころか…。



「あれ?起きていたのかい?」
 手に上掛けを持ち、関口は京極堂に被さるようにして、彼の顔を覗き見ていた。
「呼んでも返事が無かったけど、玄関が開いていたから勝手に上がらせて貰ったよ」
 夢を巻き戻して見ているような気分だった。だがあれは、実際あった昔の事。過去は過去、現在は現在だ。幾ら似たような状況に遭遇したからといえ、混同する程愚かではない。
「幾ら天気が良いからって、そんな処で転寝したら風邪をひくよ。珍しいね、君が」
 そう、幾ら似た科白があったとしても。人は繰り返す生物なのだから、同じ人間だ、幾らでも同じ状況、同じ言葉を生み出すだろう。ただ、たまたま思い出していただけだ。
 京極堂は起き上がると、無言のままいつもの定位置に移動し腰を下ろした。
「でも本当に今日は眠気を誘う陽気だね…」
 関口は開け放した窓の外をぼんやりと見ながら、そんな事を言う。本当に、何一つあの頃から変わっていないような錯覚を起こさせるように。
「関口君…?」
 ふと気づけば、襖に寄り掛かる形で、関口は目を閉じていた。よくもまあ、人の家に来るなり眠れるものだと思う。京極堂は溜息を吐くと、近くにある本に手を伸ばした。数頁捲った処で、押し寄せる睡魔に本から顔を上げる。どうにも今日はそういう日らしい。京極堂は関口の寝顔を眺めつつ、睡魔に打ち負かされるのを良しとした。
 曾て、関口が悪夢に脅かされる日々の中で、交した言葉が京極堂の脳裏に甦る。確かに時は移ろい、今はあの頃ではない。いつまでも続くように思い、そう願った事も遠い過去の事なのだ。過ぎ行く時の中で、自分たちは好む好まざるに関係無く、幾つもの選択を課せられ、何かを選び取る事で、何かを失ってきた。それを後悔したりはしない。今という形を歎きはしない――ただ、懐かしく思うだけだ。それに、変わらないものも確かにあるのだ。



 どんな形であれ、傍にいると、いつか君に誓った。