密の日




志摩あきつ  



 紅色をした枝の先に、僅か二つ三つの花が開いている。そよぐ風も幾分暖かくなったように思う。もう暫くすれば、些か汗ばむ程の陽射しも訪れるだろう。そして花が咲き乱れ、やがて散る。春という季節を、関口は幾らかの寂寥を覚えつつ、感じていた。
 学生にとっては四月こそ、新しい年の始まりだ。そして始まりは終りを意味する。あと一年。たった一年しかない。次の春には、もうここにこうしている事は無い。時に窮屈に思える寮生活も、終りが近づくにつれ、そこはかとない感慨を抱かせる。否、それだけでない事は、本当は充分に承知している。この生活が終ってしまえば、あの男との今のような距離を持つ事ができなくなると、気づいているのだ。
 近くて遠い、この距離――関口は、桜の木から眸を逸らして、そのすぐ脇にある建物の薄汚れた窓を見た。
 本の背が並んでいるのが、ぼんやりと見えた。建物の中は図書室になっている。中に入り、本を物色する事もあるが、こうして外から中を眺める事の方が多かったように思う。そしてそれは、幸せな時だった。
 どのくらいそうしていたのだろう。春が近づいたとはいえ、外に立ち尽くしているには未だ寒い。関口は冷たくなった指先を擦り合わせて、ぼんやりと見つめていた窓を、意識を強めて見た。不思議な事に本が見えない。光の加減かと思い、僅かに近づいてみると、誰かの影がそこに在る事に気づいた。否、誰かの、などという曖昧なものではない。それが誰の影であるのか、関口には即座に解っていたのだ。何故ならその為に、関口はここにこうしているのだから。
 影は、中を向いているのだろうか。それとも外を――?もしそうなら彼の眸には、関口が映っているだろう。そう思った途端、関口は俯き、踵を返そうとした。
 こつん、と窓を叩く音がした。関口は恐る恐る視線を上げる。軋みながら窓が開き、思っていた通りの人物が顔を出した。
「君も酔狂だね。そんな処に立って何をしているんだ?」
 幾らか呆れたような声。だが、それはいつもの事。関口は、窓のすぐ近くまで歩み寄ると、逆光でよく見えない彼を目を細めて見つめた。
「…桜を見てたんだよ。ほら、少しだけど咲いている」
 そう言ってさっき見ていた僅かばかりの桜の花を指し示した。視線は相変わらず彼を見つめたまま。だが表情は見えない。彼は眸を凝らして、関口が指し示した先を見やったようだった。
「君にしては随分風雅だね」
「どういう意味だい」
 関口は僅かに拗ねたような口調で言った。
「それにしても、どうせ花見をするならばもうちょっと咲いてからすればいいだろうに。それにさっきから見ていた感じだと、ちっとも桜などに眸はいってなかったようだけれどね」
 彼の科白に関口は一気に顔が赤くなるのを感じた。彼はずっと関口を見ていたのだ。何と言う事だろう。恥かしさに失語症に陥った関口は、赤い顔のまま、黙って佇んだ。



 どのくらい経ったのだろう。再び指先に冷たさを覚えながら、だが何も言わずそこにいる彼の為に、動く事は侭なら無かった。
「――関口君」
 ふいに呼ばれて、関口は彼を見遣った。相変わらず彼は影になり、どんな表情も読めない。そう思った瞬間、彼の顔が間近に見えた。窓から身を乗り出し、関口に顔を寄せたのだと気づいたのは後の事。
 刹那見えたのは、あまりに真摯な眸。



 そしてただ触れるだけのくちづけが、関口に総てを忘れさせた。春の寂寥も、杞憂も、これより深い哀しみは無い。
 今までの、ぼんやりとした、何処か甘ささえある日々は終ったのだと、関口は気づいた。関口は自分の唇を指でなぞりながら、これが最後の密の日だと悟る。
 近く、遠く――その曖昧で優しい距離の終り。自覚した想いは、もうそんなものでは済まされない。



 建物から出て来た彼の姿が見えた。一瞬、関口を見ると、そのまま歩き去ろうとする。まだ、選択の余地は在るのだと――否。
「中禅寺――!」
 関口は立ち尽していた為にもたつく足を何とか動かして、彼の許へと近づいた。