夢魔




 眠りが訪れない夜など、殊更珍しいものではなかったが、その時はふと目を醒ましたような意識があったので、浅い眠りは訪れていたのであろう。だが、一度意識が覚醒してしまうと、幽かに在った眠気さえも何処かへ遠退いてしまい、瞼を閉じる気にもならなかった。じっとしているのに耐えられなくなり、とうとう布団から抜け出し、そっと襖を開けて外を見た。
 空の高みに冴え冴えとした月が見える。月の光があまりに強く、星は姿を消している。夜風はまるで月から届いたかのように澄み切っており、皮膚を嬲り、場所を限定し得ない身体の奥に穿たれた空洞を通り過ぎた。こんな夜は独りでいるのが辛い。いや、独りだからこんな夜を迎えてしまうのか。だが仮に今、妻が在宅だとしても無駄なのだ。それは本当は解り切った事だった。誤魔化せるものならばそうしたいという思いが、心に言い訳を創る。望むべくも無い現実が、独りという意識を創るのだから。
 そう、浅い眠りの中で、夢を見ていた気がする。夢の中で、誰かに向かい呼びかけていた。語る事も、会話もままならない。ただ必死に呼びかけていた夢だった。夢が望みを映すものなら、もう少し気を利かせてくれれば良いのに。そう思いつつも、それすらも許せない自分がその夢を創るのだと思う。
 罪の意識、それは夢の中で呼びかけた相手の現状に対するものなのか、己の心情より発したものなのか、どちらとも言えるし、どちらとも言えない。いや、それは切り離せるものではない。彼が今の状況に追いやられたのは己のせいなのだ。そしてそれに対する罪悪感は、己の心情によるもの。例え誰にも知られないものであっても、己の意識の中だけのものであっても。
 だから夢の中であってさえも、望みは叶えられない。例えこの現状から脱する事ができても、それは変えられない事だと思う。
 一瞬、影が過った。月に薄い雲がかかったのだ。それは風に流され、散り散りに消えて行く。総てがそのように霧散してしまえば良いのに。何処からか生じる弱音に僅かに動揺を覚え、再び真っ直ぐな光を注ぐ月から眸を逸らす。襖を閉め、瞼をきつく閉じると、耐え切れぬ思いがついに言葉となって漏れた。
「関口君…!」
 明日は、静岡に向かう。現状から彼を救い出す。それだけを心に誓う。
 瞼の奥に焼きついた月を見つめ、彼も獄中からこの月を見る事はあるのだろうかと思った。