熱の微罪

泉 白理  



「関口君、君――もしや風邪を引いたのじゃないのかい」

電話越しに投げ掛けられた男の声に、関口はこのところ思い通りにならない己の身体の原因が漸く分かった様子で、ああなるほど……と微かに唸り声を上げた。薄着のまま炬燵を出たから足先がやけに冷える。くしゅん、と小さなくしゃみが出て、関口は思わず赤面した。

珍しく雪が降った先日、はしゃいだ榎木津が慌しく玄関を叩いて登場したかと思うと、有無を言わせない勢いで炬燵から引きずり出された。笑う雪絵に一言おざなりな挨拶をして、乱暴な男はそのまま彼を戸外へと連れ出してしまったのだ。
防寒の用意も侭ならない状況で散々付き合わされれば、風邪など不可抗力というものだ……関口は思いながら事の顛末を京極堂に切々と語りだす。古書肆は乾いた笑い声を上げ、呆れたように関口を非難した。
「榎木津に例えそういう事をされたとしても、それは誘因に過ぎないだろう。原因は君の軟弱な肉体にあるというものだぜ」
「酷い男だな。榎さんや旦那ならともかく、痩せぎすな君に言われたくないよ」
華奢な身体に劣等感を抱いている関口はむっとしたように反論した。微かに男の低い笑い声が響いてくる――。
「よく言うよ。僕は少なくとも君よりは鍛えている、」
「ああ、もういいよ!」
倦怠感を拭えず、関口は悲鳴のような声を上げた。
「ぼうっとした頭で、電話に出るのも一苦労だったんだ。受話器を持っているもの口を利いているのも辛いから、もう切るよ、」
「待ちたまえ!」
言い捨てて耳元からそれを離そうとすると、性急な声が追ってきた。関口は少し嬉しくなって受話器を持ち直し、わざと面倒そうに言葉を繋ぐ。
「……もう、何だい、」
「雪絵さんは今日から実家に泊まりなんだろう」
「な、何で知っているんだ、そんなこと……」
「千鶴子だよ。何か持って行かせようか、少しでも栄養を付けた方がいい」
――天邪鬼!
関口は思わず笑い出しそうになりながら、
反面酷く不機嫌になると何も言わず受話器を叩きつけた。


それから関口は妻に看病されることもない孤独な病人と化してしまった。雪絵に非はなくとも、夫の苦しみの知らないでいる彼女が酷い人間にも思えてきて腹立たしくなる。
勝手な思い込みだが、病人と言うのは得てして我儘なものなのだ。
熱にうなりながら身体を休ませていると、突然足音と共に何回か玄関を叩く音がした。
――ほうっておこう……、
どうせ出たとしてもろくな対応は出来ないんだから、と関口は居留守を決めた。しかし、戸を叩く音は次第に大きくなるし、何かを(多分名前だろう)呼ぶ声までしてくるのだ。
――もしかして榎さんかな。
だとしたら冗談じゃない。風邪をひいたといっても聞く耳を持たず自分を戸外に連れ出そうとするだろう。関口は酷く憂鬱になって深い溜息をついた。
いや、それにしても――、
こんなにしつこいのは、自分が此処にいることを確信している人間だからかもしれない。
それはきっと自分が風邪を引いて寝込んでいることさえも知っていて、その上で彼を起こそうとしているのだ。
関口はぼんやりと先程の電話での遣り取りを思い出した。
――千鶴さんかな……、
ふらふらとした足取りで関口は玄関に向かう。

寒々とした空気の漂う中、
何やら重たげな包みを手にして立っていたのは、

「ど、どうして……」

苦虫を噛み潰したような、酷く険悪な表情をした古くからの友人だった。



障子をきっちりと閉めて腰をおろすと、無言だった男は ふうう、と深い溜息をついた。
行灯が熱いのだろうか。炬燵だけでは足りなくて寝所にあったそれを持って来たはいいが、この狭い居間にはやはり大げさだったかもしれない――。
 あれこれ思い巡らす関口を無視するかのように、京極堂はしかし全く違うことを指摘してくる。
「何でそんな薄着をしているんだ。全く、君には常識というものがないのかい」
「あ、……」
 おろおろと関口は言い訳を始める。
「あ、汗をかいたからさっき着替えたん……」
鋭い眼で京極堂は関口ににじり寄ると、その腕を乱暴に掴んだ。
「なっ……、」
「――これは夏物だぜ、君」
 関口は一気に赤面症と失語症に陥ってしまった。家のことは何もかもを雪絵に任せているから、何処に何があるのか彼には全く分からないのだ。漸く箪笥の奥に見つけ引っ張り出して来たのに、……まともに友人の顔も見れない。
「――ああ、君、酷く身体が熱いな」
意地悪く笑う陰陽師が何とも憎らしい。関口は必死に言葉を繋いだ。
「か、風邪なんだから、当たり前じゃないか……」
ふっと、男の眼が優しげに揺れる。
俯いたままの相手は当然気付かず、ただこの状況から逃げ出したくて続ける言葉を探している。
「……君はまた汗をかいているね。拭いた方が直りが早いよ――」
言いながら、性急な男の手が浴衣の襟に伸びた。関口は慌てて京極堂の手を取る。
「い、いいよ、そんなこと……、」
「普段は僕ばかり頼る癖に変なところで遠慮をするのだな。
これが逆ならいいんだが――」
京極堂のやけに含みのある台詞に関口は酷く赤面した。
「な、何言って……」
「関口――」
男の声が艶めいている。家主は堪らずその身体を強ばらせた。
「風邪は……人にうつしてしまえば直りが早いという俗説がある。試してみようか」
「京極……ッ」
やんわりと身体を横たえられてそっと頬を撫でられる。
熱に朦朧としている身体が己のものではないようで、関口は ああ、と一つ吐息を洩らした。間を置かず、京極堂の偲び笑いが響いてくる。
――いい加減素直になりたまえよ君。いつもこれじゃあ僕も疲れるぜ……、

混濁した意識のまま、
関口はますます熱を生んで来る身体に全てを任せて潤んだ眼をそっと閉じた。
静寂に響く衣擦れの音だけが、やけに現実的だった。

――き、京極堂……、
密やかに、熱い吐息で彼の名を呼びつづける。
関口の潤んだ瞳が京極堂を遠く映して、彼をどうしようもなく不安にさせた。
――この手を……握っていたまえ、
男は身体を起こすと所在なげな関口の左手を己の右手で掬い取った。
――君はいつも不安でしょうがないのだろう。僕はずっと君を見ていると言うのに……。
甘い囁きが脳裏を朱に染めて、もう何も考えられない。
ぼうっとしてくる頭を熱のせいだと納得させながら、
関口は酷く深い情欲の底へと落ちていった。


「……はあ、」
気だるい身体を起こすと案外に身体が楽なので、関口は知らず安堵の表情を浮かべた。
眼を覚ました時は、裸のまま眠ってしまったのでもしや風邪を一層悪化させたのではないかと暗い気持ちになっていたのだ。
ついと隣に目をやると京極堂の背中が見える。
自分が起きる時にはいつも彼は身支度を終えて憮然としているので、珍しいこともあるものだと声をかけると――何やら苦しげな吐息が漏れてきた。
「京極堂――きみ……、」
 触れる身体がやけに熱い。
「まさか――」
思わず顔を綻ばせてしまう。彼は見事に関口の風邪を引き受けてしまったのだ。
「京極堂、」
「……そんなに呼ばなくても聞こえているよ。それに何だか君……嬉しそうだね」
寝返りをうって顔を向けた彼は酷く凶悪な表情をしている。風邪をひいた死神というのは成る程、この世で最も恐ろしいものなのかもしれない……関口は思わず身を竦めてしまった。
「君――」
京極堂の細い腕が伸びて、男の頬をそっと撫でた。僅かに潤んだ眼が妙に優しい。
「酷い悪寒がするんだ、暖めてくれるかい、」
病人の割に余裕のあることを言って、京極堂はふふと笑った。時々零れる息は苦しげなのに、関口に弱みを見せたくないのだろう。そのまま彼の身体を引き寄せ、熱を持った腕で抱き締める。ああ、と吐息を洩らして、京極堂の意のままになっている関口は満更でもないという顔で男の胸に顔を埋めた。
その時――。

「あなた、遅くなってごめんなさい、」

玄関を開ける音と共に、廊下から雪絵の声が響いた。


関口にはそれから自分がどうやってその窮地を脱したのか、皆目記憶がない。
ただ持参した包みの中身が妻の手料理だったのに、何故そのまま暖かい部屋で広げもせず放置していたのか、雪絵に問われ苦しい言い訳をしている男の姿だとか、送り出した彼の眼が妙に恨めしそうだったとか、断片的にしか思い出せない。
自分は自分で、着物の合わせ目が逆ですよ、と指摘されただけでうろたえていたのだから、慌てていた彼を責めるわけにもいかないだろう。
ふらふらとした熱のある身体を、平気な振りをして立ち振る舞っていた京極堂をむしろ尊敬してしまう。
やはり言葉通り、彼は自分より身体を鍛えているのかもしれないな……関口はぼんやりとそんなことを思った。


「ねえ、雪絵さん。私千鶴子よ」
「あら、どうしたの千鶴さん。今日はご実家じゃなかった?」
「それが主人、風邪を引いてしまってねえ。関口さんが風邪を引いたからってお見舞いに行った帰りなんだもの。悪いけど笑ってしまうわ」
「まあ、それは申し訳ないことをしたわ。中禅寺さんたら真っ赤な顔をされているのに何もおっしゃらないんだもの。お送りしたときもご気分が優れなかったのね、きっと」
「我慢強いのだけがとりえですもの。あのお地蔵さんは」
「うふふ、千鶴さんたら」
「おほほ、」
それから妻たちは暫く愉快そうに笑い続けていた。
京極堂は座敷で横になりながら会話の一部始終を聞いてしまったが、ただ顔を赤くさせるばかりで、会話が途切れて近づく足音に思わず布団を頭の上に引き上げ、すっぽりとその身体を蔽ってしまう。
「ねえあなた、」
千鶴子のくぐもった声が聞こえてくる。
京極堂は寝たふりを決め込んで返事をしなかった。
「やっぱり、私が行けばよかったわねえ、関口さんのお見舞い」
 
――お、女って……。

ころころと笑う千鶴子の声に、
――京極堂は己の悪寒がますます酷くなっていくような気がした。





泉さま、素敵〜♪
ありがとうございます!
京極堂が格好悪くて(笑)最高です〜。
いや、マジに(^^)

泉さまの素敵なサイト『マリアの思う壷』