或いはこんな人魚姫







「方法が――?」
 京極堂の眸を覗き込むようにして見つめながら、巽は聞き返しました。一体どんな方法があるというのでしょう。巽のじっと見つめる視線に、京極堂は暫し沈黙すると小さく溜息をつきました。
 京極堂にとっては言いたくも無い言葉をつい口にしてしまったのは、巽の涙にこれ以上無い程動揺してしまったせいでした。哀しみに打ち沈み、身を切るように歎くその姿に、京極堂は我が身すら切り刻まれるような心地になったのです。もし巽の笑顔が見られるならば――ああ、それは何て素晴らしい想像でしょう――我が身が更に深い傷を負おうとも構わないとすら思えてしまうのでした。
「――但し、覚悟が必要だよ」




 魔法使いとはその名の通り魔法を使う事のできる者の事ですが、その魔法とは決して無から有を生み出すような自然の摂理に逆らったものではありません。寧ろ、自然との折合いを巧くつける為のようなものです。
 京極堂は巽に魔法についてそのように説明しました。
「だから君が魔法において陸で生きる為の身体を手に入れる為には、代わりに何かを失わなくてはならないよ」
 巽はその言葉に少し怯えましたが、それでもそれは決して想いを揺るがすようなものではありませんでした。それを見て取った京極堂は、己の眸に苦悩の色が浮かんだ事を巽に気づかれないよう背を向けて、思わず大地を呪いました。
「君のその美しい声か瞳を失う事になるよ?それでもかい」
 巽は消え入るような声で、はいとその真意を隠した京極堂の背に言いました。そして王子を見つめる為に陸を選んだ人魚姫は、声を差し出したのです。




 初めて踏みしめる大地は、悲鳴を上げたいような痛みを巽に与えました。ですがその唇からはどんな声を出す事もできません。あまりの苦痛に涙が溢れ、歪んだ視界が遠退き世界が反転したかと思えた時、巽は聞覚えのある声を耳にしました。浜辺に倒れこんだ巽の目の前に現れたのは、焦がれに焦がれた王子でした。
「何だ?また遭難者か?ずぶ濡れじゃないか!」
 王子はそう言って巽に駆け寄ると、些か乱暴とも思える動作で抱き起こしました。巽は目の前の王子の姿に足の痛みも忘れて、ただただ見つめ続けました。王子が不審がる程見つめ続けましたが、言葉を失った巽には他にどうする事もできません。
「心配するな、僕もこの間遭難したばかりだ」
 と全く道理の通らぬ言葉でにっこりと王子は微笑むと、巽を抱き上げて城へと向かいました。こんなにも間近で王子を見、そして声を掛けられた事に、巽は気を失いそうな思いでした。こんなにも早く願いが叶うなんて――!
 巽は遠ざかる海辺を王子の肩越しに見、この幸運を与えてくれた京極堂に向けて感謝の言葉を胸の内に呟きました。本当は例え聞えなくとも大声で叫びたい程でしたが、巽の声はもう無いのです。それが少し胸を痛ませました。




 京極堂は苦い想いを抱きながら、海の底の彼の庵でその光景を見ていました。巽の胸の内の痛みも歓びも、彼には手に取るように解るのです。
 頬を愛らしく染めてた巽は、何よりも輝いて見えました。なのにそれはもう手の届かぬ場所にあるのです。いえ、京極堂の手の届かない場所を選んだ事で、巽はあのような表情を持ち得たのでした。千の針が突き刺さるような足の痛みにも、耐え得る程に巽はその場所を望んだのです。
 京極堂は誰とも関らずに来た今までの自分を懐かしみました。あのままならこのような想いをせずに済んでいたのに。ですが巽と出会えた事を呪う気には全くなれないのでした。
 京極堂は息をするのにも苦痛を覚えそうな胸から、深い溜息を吐き出すと、巽の幸福を祈ろうと決心しました。もうそれ以外に自分にできる事は無いと言い聞かせて。




「君は喋らないのか?それとも喋れないのか?」
 そう訊ねられても巽には返事をする事ができません。せめて是非を訊ねられたなら、縦か横に首を振る事ができるのですが。ですが王子は質問しつつも、その質問にも答えにも興味が持続しないらしく、巽にはよく理解できない言葉を喋り続けました。
 最初は戸惑いましたが、巽にはこうして王子の傍で彼を見つめる事ができるだけで幸せでした。
 そうして幾日かの時が過ぎて行きましたが、巽は陸での生活に疲れていきました。王子を見つめられる事が巽の幸せだった筈ですが、快活な人間らしい王子はあちらこちらと飛び回り、歩く事も不器用な巽は、それをただ目で追って眺めている事しかできません。誰かと王子が愉しそうに会話をしていても、例え王子が巽に話しかけてきても、何も喋る事ができない巽に、どうする事ができたでしょう。
 これでは海の中から見上げていた頃と何の変わりもありません。寧ろ期待を持ってしまった分、哀しみは深いのでした。
 ここには巽の想いを理解してくれる者は誰一人いませんでした。そんな想いに捕われた時は決まって京極堂を思い出しましたが、それは身勝手な想いというものです。
 人間の生活に巽はすっかり萎縮し、微笑みは力無く虚ろになり、夜毎に海を懐かしんで涙を流すようになりました。しかしそれでも王子を見つめ、時折でもその瞳が自分を見つめてくれれば…そんな想いだけが巽の支えでした。




 夜、巽はせめて波音を聴きたいと思い、海岸まで痛む足を引き摺り何とか辿り着きました。
 夜の海は優しい音色に包まれて、しとしとと流す巽の涙と交じり合いました。
「あんなに望んでここに来たのに、何故そんなにまで哀しい涙を流すんだい?」
 視界は涙で歪み、夜の闇も手伝ってその姿は巽にはよく見えませんでしたが、巽はその声を聞き間違える事はありませんでした。


――京極堂!


 胸の奥で巽は叫びました。そして痛む足を構う事無く運び、彼の広げた腕の中に飛び込みました。どんな言葉も持ち得ない今、巽には他にどうその想いを現せばいいか解りませんでした。ですか京極堂には確りとその想いは伝わったのです。
「可哀想に…愚かな人間は言葉無くして想いを受け取る事もできない。その言葉すら常に曲解し想いのままには受け取る事もできないくせにね」
 京極堂の声は巽の胸に染み入る程に優しい音を持って響きました。夜の闇が京極堂の覆いとなり、京極堂自身の覆いは取り払う事ができたのです。巽はその優しさに触れて、止めど無く涙を流しました。
「もう泣くのは止めなさい。君の涙は海を辛くするよ…私が君の願いを叶えてあげるから」
 京極堂の言葉に巽は伏していた顔を上げました。見上げた京極堂の表情は今まで見た事の無い程に優しく、巽の胸を打ちました。ですが巽は疑問を瞳に乗せました。既に京極堂には巽の願いを叶えてもらっているのです。これ以上何を叶えて貰う事があるでしょう。それに何かを叶えて貰うにしても、巽にはもう差し出せるものは無いのです。瞳を無くしては意味がありません。
「心配しないでいい。もう君は何も失わなくていいから、声を返してあげよう」
 思いも寄らない言葉でした。もしそれができるのであれば、このような辛い想いから逃れる事ができるかもしれません。ですが魔法をかけて貰うには何かが必要な筈です。なのに何も失わなくてよいとはどういう事なのでしょう。
「微笑んでおくれ、それだけが私の望みだ――」
 京極堂の言葉に巽は知らず微笑んでいました。彼の優しさがあまりに心地良かったので。
 京極堂が僅かに屈み、その顔があまりに近づいたので、巽は気恥ずかしさから瞳を閉じました。唇に一瞬より少し長い時間、触れた優しい想い――それがくちづけだと気づき、驚いて瞳を開けた時には、そこにそれをくれた人の姿はありませんでした。
「京極堂…?」
 呼んで辺りを見回しました。誰も返事をしてくれる者はありません。巽は海へと足を進め、再び彼の名を呼びました。そこで初めて自分の声がある事に気づきました。ですが身体は人間のまま、何一つ失われたものはありません。
「――京極堂?」
 気づいた想いに、巽は愕然としました。それを否定したくともできるものではありませんでした。京極堂は巽の為に、無から有を生み出すという自然の掟に逆らったのです。そして――
「どうして…京極堂――」


――微笑んでおくれ、それだけが私の望みだ――


 京極堂の最後の言葉が巽の胸を打ちました。





 微笑む事などどうしてできましょう。泣き続けた巽は、朝陽が海面を輝かせ始めた頃、そろりとその顔を上げました。一生分の涙を流し切ってしまった巽は、京極堂の言葉を幾度も反復し、そして最後に呟きました。
「嘘吐き。一番大切なものを無くしてしまったよ…」
 それが自分のせいだとは充分に解って、巽は微笑みました。それが精一杯でした。
 朝陽が眩い光を海に撒き散らす中、人魚姫でなくった人魚姫は自ら泡となり、消えていきました。






ああ…イタイ話になってしまった(笑)
お口直しに市川哲氏から戴いた〜人魚姫〜をどうぞ(^^)