線香花火


102さま


「ともすれば 君口無しになりたまふ 海な長めそ 海にとられむ」
若山牧水歌集「海の声」


 玄関の方がガタガタ騒々しいと関口がいぶかしむ間もなく、廊下を何やら走る音がした。
 次いで座敷の障子が外れそうな勢いで開けられる。
「わははは! 猿君、喜べ!!遊びに来てやったぞ」
「え・エノさん…? なんだって、また…」
 ごろりと横になって、読むとも無く新聞をつらつら眺めていた関口は、吃驚してまん丸になった目で榎木津を見た。
「相変わらず、暇そうだな!」
 わははと大声で笑いながら榎木津は、起きあがろうとした関口の背中に馬乗りになる。
「重いっっ! エノさん、降りて下さい。苦しい!!」
「華奢だなぁ、君は! ちゃんと食ってるのか? たまには金になる作品を書いて、いい物を食べないと駄目じゃないか!!」
 乗った関口の、あまりの体の薄さに驚いたように榎木津が言う。
「余計なお世話です! 餓死しない程度には食べていける状態ですから、ご心配なく!! それより早く降りて下さいよ」
「雪絵さんも不幸だね、こんな甲斐性の無い亭主を抱えて」
 彼の下で暴れている関口など気にも留めずに、榎木津は思い出したようにポンと手を打った。
「おお! そう言えば雪絵さんはどうした、関」
 暴れつかれたのか、ぐったりした関口の頭を動物にでもする様にポンポン叩きながら榎木津が問う。
「雪絵なら千鶴子さんと一緒に芝居見物です。帰りに美味しいものでも食べてくるが良いと言っていくらか渡したんで、きっと帰りは遅いですよ」
「君にしては気が利いたことをしてあげたね。雪絵さんも猿の世話ばかりでは大変だからな!」
 ご機嫌で笑う榎木津の下から、なんとか身体を捻って逃げ出すと、関口は大きな息を一つ吐いて、呼吸を整えた。
「ですから、なんのお持て成しも出来ません。僕は留守番中ですから、誰か他の家に遊びに行ってくださいよ、エノさん」
 ぐしゃぐしゃになった髪と衣服を簡単に整えながら、関口は疲れたように言う。
「ふぅん…。じゃあ京極堂へ行くぞ!! 付いて来い、関!!」
 やっと落ち着けると思っていた関口の腕を掴むと、そのまま榎木津は立ち上がった。
「待ってくれよ、エノさん! 僕の話を聞いてますか? 僕は留守番中で……」
「煩い、猿!! 下僕が主人のお供をするのは当然だろう、この馬鹿者!!」
 どうせ盗られるような物など無いし、空き巣が入ればそれを小説のネタにするが良い。お釣りが来るさ! とカラカラ無責任に笑いながら、榎木津は関口を引っ張って行く。
 所詮、榎木津に逆らうなど自分には、いや誰にも出来はしないのだ。
 関口は深く暗い溜息をひっそりと漏らした。


「おい! バカ本屋!! 遊びに来たぞ」
 勝手知ったるとばかりに座敷に上がりこんだ榎木津をちらりと見ただけで、中禅寺は再び読書を再開した。
「どうでも良いですがね、うちは暇潰しの娯楽遊戯施設や集会所じゃないですよ」
 むっつりと不機嫌そうな顔で、依然読書を続けながら中禅寺が言う。
「どうでも良いならいちいち言うな! どうせ君も暇なのだろう。ほら、お供の関も一緒だぞ!!」
 道中からこっち付き合わされた榎木津のハイテンションぶりに当てられたように、所在無く入り口辺りでぼんやりしていた関口は我に返ったように、
「京極! 君からも何か言ってくれ! 僕だって留守番中に連れ出されたんだぞ」
 と、中禅寺に「なんとかしろ」と言っては見たが、
「君の意志薄弱が悪いのさ。僕に助けを求めたって知らないよ」
 と、軽く鼻であしらわれてしまい、関口は唇をへの字に結んだ。
「素直じゃないねぇ、京極」
 ニヤニヤ笑いで呟いた榎木津の笑いの意味が解らず、ハテナと首を傾げる関口の頭を榎木津は腋に抱き込むと、
「猿回しでもするか?」
 と言って、愉快そうに大笑した。
 じろりと中禅寺の陰険な睨視を受けても、さすがの榎木津は応えた様子がない。
「はん、剣呑剣呑」
 と意地の悪い笑みを浮かべ、抱えていた関口の頭を軽く撫でから解放してやる。
「さて、日も暮れかけてきた。良い頃合いだ」
 縁側に、赤い光が射している。
 庭に出ると、あたりの風景は暮れ方の物憂い色合いに包まれ始めていた。
 東の空は宵闇が滲み、猫の爪のような細い三日月が薄い色で空に貼り付いている。
「お暇しますか、エノさ…」
 ホッとしたように言いかけた関口の頭に、唐竹割りよろしくチョップをくれて、榎木津は持参の包みをごそごそと探った。
「馬鹿猿め! 何故僕が帰らなければならないんだ! 今日はこれをするために来たのだぞ!!」
 そう言って、線香花火の束を、見ろとばかりに関口の鼻先に押し付けるように差し出した。
「どうだ。素晴らしいだろう!!」
 大変ご満悦の様子でにっこり笑み掛けられ、関口は一瞬その貌に見惚れた。
「ほら、関君」 
 子どものように無邪気にはしゃぎながら榎木津は線香花火の束を解して、より分けた一本を関口に差し出した。
「あ・どうも…」
 同性の榎木津に見惚れていた気恥ずかしさに、僅かに頬を紅潮させ、関口はそれを受け取った。
「花火かァ…。そう言えば随分久しぶりだなァ」
 童心に帰ったような気分で関口はしゃがみこむと、中禅寺が用意した蝋燭に花火の先を近付ける。
 ジ…と鈍い音がして、ぱちぱちと火玉がはぜる。
 オレンジ色の火の塊が、震えながら穂先にぶら下がっている。

 溶解したオレンジ色の玉をぼんやり見つめていると、関口の脳裏に学生時代に見た、海に沈む大きな夕日が蘇った。
 溶け落ちるように海に沈む大きな太陽。
 あれは、中禅寺に連れられて行った海だ。
 鬱になり、内へと向かう私の精神を外へ向けようと、中禅寺なりに気を遣ってくれたのだろう。
 千葉か…。それとも神奈川だったか。
 何処だったろう。

 自分の背中に突き刺さる、痛いような視線を覚えている。
 私は無言で海を見ていた。
 彼も…いや、彼は僕を――見ていたのか…?
 海に落ちる、燃える太陽。
 自分の背中に刺さっていた、中禅寺の視線。
 その視線には「もどり」が付いていて、背中を貫いたそれは、ずっと関口の心に引っ掛かっていたようだ。

 『ともすれば…』
 彼が呟いたのは誰の句だったのだろう。
 『牧水さ』
 と吐き捨てるようにぶっきらぼうに言われたが、続く句は思い出せなかった。
 ただ、この偏屈で恐ろしく愛想の悪い仏頂面の友人と若山牧水は結びつかず、何故か可笑しかった。

「そう言えば、京極。君と学生時分に海に行ったね」
 濡れ縁に腰掛け、ゆっくり紙巻を燻らせていた中禅寺の横に座ると、関口は自分も煙草を取り出した。
「あれは何処の海だったっけ」
「あきれたね。君が海が見たいと言うから、大洗まで繰り出したんだぜ?」
「あ、悪かったね」
 頭を掻きながら、関口が口篭もる。
 そうか。県外まで足を伸ばしたように覚えていたが、どうやら記憶違いのようだ。
 静謐な空間に、とても長い間二人で居た様に覚えているので、まさかそんな近場とは思っていなかった。
 聞きたいのはそんな事ではなかったのだが、「全く君という人間は…」とブツブツ愚痴だか説教だか解らない物を中禅寺が垂れ始めたので、関口は言葉を
腹の底に沈めこむしかなかった。
「何を先程からごそごそしているんだ。それが人の話を聞く態度かい? 少しは落ちつきたまえ、見ているこちらが苛苛する」
 煙草を口にくわえたままで、シャツの胸ポケットを覗いたり、ズボンのポケットを探ったりしていた関口を見かねたように、中禅寺は説教を一時中断して言った。
「いや…どうもマッチを忘れたようだ。京極、悪いがもらい火して良いかい?」
 そう言って、関口は腰を浮かせ、中禅寺のくわえた煙草へ自分がくわえた煙草の先を近付けた。
 紫煙が立ち昇る先に触れると、先端の灰の奥で紅く火が熾った。
 小さな音を立て、関口の煙草に火が点く。
「有難う」
 言って中禅寺から離れると、関口は深く煙を吸いこんだ。
「……―――」
 中禅寺はいつもの饒舌を口の奥で凍りつかせ、やがて自嘲気味の不可解な笑みを口の端に上らせた。

 榎木津は半眼で愉快そうにその様を見ていた。
 榎木津の手の線香花火がパチパチとあえかな細い花びらを散らしている。


 やがて、膨らみすぎた線香花火の火玉は、その重みに耐えきれぬようにボトリと溶け落ちた。


「僕はもう帰るぞ」
 勢いよく立ち上がると、ズボンの座り皺を軽く直しながら榎木津が言った。
「あ・それじゃ僕も…」
「頓馬! 君は後片付けだ、関!! 京極はどうせ”自分はしていない”と言って片付けはしないだろう。そうしたら、芝居見物から帰って来た千鶴子さんが、それをしなければならないじゃないか!!
勝手に押しかけて、散らかし放題で帰るなど行儀が悪いぞ、猿!!」
 勝手に押しかけたのも、花火をしたのもあんただ、エノさん! そう返したいのは山々だったが、言って聞く榎木津ではない。どうせ「生意気だ」と抓り上げられるか、ポカリとやられるのが落ちだ。
 ならば、大人しく後片付けをしてから帰ろう。
 確かに榎木津の言うことは尤もではあるし。
 不承不承、関口は「わかりましたよ」と投げ遣りに答えた。
「それじゃ、おやすみ! 苦労性の気難しがり屋に馬鹿なお猿!!」
 ひらひら手を振りながら、薄闇の中へ榎木津は消えた。

「え…と。取り敢えず花火の軸を…」
 榎木津が気の向くままに彼方此方で火を点けては、そこら中に投げ捨てている軸を拾おうと関口は立ちあがりかけた。
「いいさ。明日明るくなってから僕が片付ける」
 居心地の悪い沈黙に耐えかね関口は立ちあがろうとしたのに、中禅寺が言葉でそれを制した。
「どうせ暗くて何も見えない。中途半端に片付けても、二度手間になるだけだよ」
 そのまま中禅寺は座敷へと入ってしまった。
 残された関口は所在なげにおろおろ視線を彷徨わせ、帰るべきか否かと無意味な動作をしていたが、「何をしているんだ、君は」と中禅寺が怖い顔で言うので、少し座敷で中禅寺と話してから帰ることにした。

「関口君、君があの海のことを覚えていたとはね」
 何の感慨も篭らぬ口調で言われ、関口はどう答えていいか言葉に詰まった。
「―――君の脳はどうでも良いことばかり記憶している」
「線香花火の火玉を見ていたら、ふと思い出したのさ。そんな言い方しなくてもいいじゃないか」
 牧水の歌の続きを聞く善い機会だと思い、関口はそれを中禅寺に問うてみることにした。
「なぁ、京極。君があの時言った牧水の歌の続きを知りたいんだけど…」
 途端、中禅寺は目を僅かにだが見開いた。
 とても珍しい。この男が驚いている。
 中禅寺とは長い付き合いだが、関口は彼のこのような表情をあまり見ることは無い。
 そして、中禅寺の眉間の皺が深くなる。
「まったく…。つくづく厭になるね、君という人間は」
 心底厭そうな表情で中禅寺が言うものだから、関口も悔しくなり、抗議しようと腰を浮かせた。
「あんな湿気の多い情緒過多な歌を君に告げようとしたなんて、学生時分とはいえ、自分の青臭さが悔やまれるよ」
「は…?」
 虚を突かれ、行き場の無くなった抗議の言葉が宙をぼんやり漂う。
「なんでもないさ。忘れてくれたまえ」
 唇を歪ませ、苦いものを吐き捨てる様に中禅寺は言った。
「なんだよ、その言い方は! 気になるじゃないか!」
「――好奇心は猫を殺すよ」
 中禅寺は嚇す様な低い声で言うと、ちらりと視線だけ関口に寄越した。
 暗く深き淵に潜む狂気に似た光を宿したその目に、関口は背筋に冷たいものが滴るのを感じた。
「京…極――?」
「関口君。君の鈍感さが、非道く人を傷つけることもあるのだと、知っておいたほうが善い」
「そんな曖昧な言い方じゃ解らないよ。なんだって君はそう持って回った表現で僕を混乱させるんだ!」
 見えない巨大な「何か」が圧し掛かって来るような、正体は解らぬが漠然とした不安に関口は耐え切れず、つい声を荒げた。

「……っっ!」
 突然中禅寺に胸倉を掴まれ、驚く間もなく視界が狭搾し、視野が暗転する。
 
 噛みつくような、暴力的な口付けだった。

「ん……っ!」
 自分の唇にあたった、柔らかな薄い感触のものが、中禅寺の唇だと認識されたのは、乱暴に彼の舌が関口の口腔を犯したときだった。 
「や…」
 抗議の言葉も足掻きも許さない、強烈な意志の力に関口は怯えた。

「――僕は忠告した筈だぜ?」
 鼻先が触れ合う距離で、熱い吐息とともに吐かれる言葉は、烈火の如く関口の精神を焼く。
「そんなに知りたいかい? 関口君――」
 
 ならば、教えてあげよう…

 そう言うと、関口を組み敷いた中禅寺は笑った。
 甘美な毒を含んだ、蟲惑の笑み。

 恐怖と驚愕で溢れる涙にぼやけた関口の視界を、鮮やかな映像が過ぎった。

 膨張した線香花火の火玉。
 やがて自らの重みで、ボトリと溶け落ちたそれ。

 心に残っていた、「もどり」のついた中禅寺の視線が、今、関口を引き裂いた。