莫我知也夫
我ヲ知ルコト莫キカナ

 京極堂は他に誰もいない家で独り、自分に腹を立てていた。そして次に焦燥感を覚え、更には落ち込んだ。そうするとまた腹が立つ。どうしようもない堂堂巡りだ。その理由というのは、情けなくも風邪を引いてしまったせいだった。最初は僅かな喉の痛みに気づき、何故かと思う内に頭痛がしてきた。どう考えても風邪の引き始めである。思い起こせば昨夜は些か寝苦しい暑さであった為、薄掛け一枚だけを掛け、肩を出して眠っていたような気がする。
 風邪を引くなど酷く愚かしい。そしてその愚かしい理由を自分自身で作ってしまった為に、自己嫌悪でいつもの凶相が更に度を増していた。尤も誰が見る訳でもない。京極堂は一つ溜息をつくと、早くに治してしまおうと、妻が不在の為だらしなくも敷きっ放しにしておいた布団に横になった。風邪は引き始めが肝心。兎も角安静にしているのが一番だ。



 どうもうとうととしていたらしい。幽かに自分を呼ぶ声を聞いた気たして、目を開けた。誰か来たのであろうか。だが起きるのは億劫だった。今日は安静にしていようと決めたのだからと居留守を決めこむ事にして、再び目を閉じる。だが、声は外からではなかったらしい。
「京極堂?どうしたんだい、こんな時間から休んでいるなんて。具合でも悪いのか?」
 閉じた目を、京極堂は不承不承開いた。何て間が悪い。依りによって合鍵を持った者が訪問者とは。
 京極堂は思い切り仏頂面で関口を睨みつけた。こんな様子を人に見られたくないというのが本音である。だから虚勢を張った。だが拙い事に、関口には京極堂の仏頂面は見慣れたものであり、更には長い付き合いからそれがどのような方向に意味を持っているものなのか、ある程度感知してしまうのだ。
「風邪かい?熱は?」
 そしてやはり京極堂の虚勢でしかない仏頂面をきちんと感知した関口は、京極堂の枕許に膝をつき、あろう事か額に手を伸ばしてきた。京極堂は慌ててそれを己の手で掴む事に拠って遮る。
「やっぱり熱があるんじゃないのかい?手が熱いよ」
 関口は愕いたように言う。
「少し頭痛がするだけだよ。だから相手はできないから今日は帰ってくれないか」
 関口の手を押し戻しながら、京極堂は言った。熱があると聞き、更に拙い事になったと内心焦りを感じたが、兎も角こんな情けない姿は他人に見せたいものではない。
「そんな訳にはいかないよ。今、千鶴子さんは実家に帰って君は独りだろう?何かあったらどうするんだい?」
 非常に拙い展開だと京極堂はそっと舌打ちをした。このままでは関口は看病に泊ると言い出しかねない。いや、既にそう言っているも同然だった。
「君がいたってどうにもならないだろう。それに君にうつったりしたらどうするんだい。僕はそんな事まで責任持てないからね」
 京極堂は拒絶の言葉を吐いた、つもりだった。だが臥している京極堂にいつもの威力は無いらしい。関口は京極堂の言葉をいともあっさり切り捨てた。
「僕にだってできる事くらいあるさ。不満なら君が指図してればいいだろう。代りに動くくらいできるんだから。ちょっと電話を借りるよ」
 そう言って関口は外泊を告げる為に家に電話をしに行ってしまった。こうなってはどうする事もできない。先程から頭痛と共に熱の兆候のいやな感じが脳を渦巻いており、これ以上の反論も面倒だった。
「何か食べたのかい?」
 関口は電話を済ませて帰ってくるなり言った。どうも嬉々とした感じの口調に聞こえる。滅多に無い看病する側の立場に立てた事をどうも愉しんでいるようにしか思えない。京極堂としても普段とは逆転した立場に、どういった感想を抱いたものか途方に暮れた。
「放っておいてくれないか。その辺で大人しくしていてくれ」
 脱力に見舞われつつ京極堂は言った。
「食べてないんだろう。駄目だよ、食べないと。それから薬を飲んだ方がいい」
 そう言って関口は彼にしては珍しく、機敏な動きで台所へ向かおうとする。
「ちょ、ちょっと待ってくれ、関口君。まさか君が作るというんじゃないだろうね」
 慌てた京極堂の口調に関口は振り返りつつ言った。
「僕だって素うどんくらい作れるよ。嫌なら隣から出前を取るけど」
 嫌、というより不安だった。思わず京極堂は口篭もる。それを了解と取ったのか、ちょっと待っててくれと言って、関口は台所へと入って行った。



「京極堂、できたよ」
 声を掛けられてはっとする。まどろんでいたらしい。目を開けると関口の顔が間近にあった事に、京極堂は不意討ちをくらった気分になった。わざと不機嫌な表情で内心の動揺を隠し、上体を起こす。
 と、目の前に盆に載せた丼が差し出された。出汁の良い香が漂う。子供が期待をして自分の評価を待つといった関口の面持ちに、京極堂は黙って盆を受け取った。
「うむ」
 一口食べて京極堂は言った。
「美味しいかい?」
 関口が期待と不安が入り混じった声で迫る。
「――不味くは無い」
 普通なら褒め言葉には程遠い言い回しも、京極堂にしてみればかなりのものだ。関口もその処はよく解っている。ぱっと輝くような表情が浮かぶ。京極堂は黙って箸を進めた。



 薬を飲むと抗い難い睡魔が襲ってきた。京極堂は目の端に本の頁を捲る関口の姿を認めてから、引き込まれるように目を閉じる。いつもと立場が逆だなと思いながら、この頃にはそんな状況にも少し慣れてきていた。つまり、居心地の悪いものではないという事だ。半ばまどろみながら、京極堂はそう思った。
 夢というのは不可解である。と同時に納得をせざるを得ない事も多いのは事実だった。この時、京極堂が見た夢はこのようなものだった。
 京極堂は本を読んでいる。これは京極堂にとっていたって自然な事だった。傍らにぼんやりと関口が座っている。これもまた然りだ。いつもの情景。些かの奇異も無い。
「本を読んでいられれば君は満足だね」
 関口がそんな事を言った。その途端、それだけでは満足ではないと京極堂は思う。するとその情景は霧に飲み込まれ、別の情景が浮かび上がってきた。
 京極堂は煙草をふかしていた。傍らには同じように煙草をふかす関口がいる。先程まで何やら熱中して話をしていたような気がする。その区切りの、一時の休息。穏やかな時間の流れ。
「こうして座って煙草をふかしていられれば君は満足だね」
 関口がそんな事を言った。そうしてまた京極堂はそれだけで満足できる程、めでたくは無いと眉を顰める。すると再び情景が変わる。
 京極堂はゆっくりと歩いていた。風は心地良く、見渡す限りの風景も落ちつけるものだ。傍らには同じようにゆったりとした足取りで関口が歩いている。
 もうここで関口の科白を待つまでも無かった。自嘲が浮かぶ。なんてくだらない夢なんだ。解りきった夢だった。自分にとっての満足な情景――そこに必ず在る、不可欠な存在。なのに、君は気づかない。



 目を開けると、傍らにぼんやりと座っている関口の姿が見えた。夢の中も、現実も、変わりは無い。
「何か欲しいものはあるかい?」
 京極堂が目覚めた事に気づき、関口が問う。まるで夢の続き。
「――が欲しい」
 声に出すか出さぬかの処で京極堂はぼそりと呟いた。
「え?」
 当然聞こえる筈も無く、関口は耳を近寄せて聞いた。京極堂は自分が口にしようとした言葉に苦笑を浮かべると、溜息をつき、今度ははっきりとした声で違う言葉を口にした。
「水が欲しい」
 解ったと言うと関口は立ち上がり去って行く。じっとその姿を眸で追いながら、京極堂は最初の言葉をはっきりと口に載せた。
「君が欲しい」
 関口には届かない。勿論、届かないように言ったのだ。再び苦い笑いがこみ上げる。
 風邪など引いて、きっとどうにかしてしまったのだ。自分はこんなに素直な人間ではない。そしてそうなりたいとも思わない。
 だから。
 きっと君には解らない。君が知る事は無い。