環境問題は「家庭」から
  老い、ボケ、日本人の老後というものを考えるとき、確かにあなたの言うように日本の老人における陰の薄さとの関連も考えられるかもしれません。
 勿論、日本人の長寿命性という問題もあるかもしれませんが、日本の老齢化構造の問題は、日本全体としての深刻な問題であるにも関わらず、余りにも疎かにされているように思います。

 よく、「これからの日本における将来性のあるビジネスは?」と聞かれると、私は「終末ビジネスです」と答えます。
 「人間の死」、「物の死」をテーマとしたビジネスの必然性とその市場規模の大きさからくるものなのです。具体的には老人福祉、葬祭、廃棄物処理といったような極めて暗い分野を中核にしたもの以外は、日本におけるビジネスの可能性が期待できないという、これまた暗い話なのですが・・・・・

 話は、また戻って、「日本における老人の陰の薄さ」ですが、今の日本が「景気回復」の名の下に、無謀とも云える借金財政を拡大し、将来的な日本の崩壊に向けて歩みだしている現状にあって、もっと「暗」の部分に対しても日本人はまじめに取り組まなければならないのですが、それができないでいる日本に対して私自身大いに失望しています。
 我々を含めて多くの国民が確実に直面する老齢化問題に対して、あなたの言うところの「老人の陰の薄さ」すなわち、「老人としての生き甲斐」に対して、我々は考えようともせず、何もせずにいるということなのですから・・・・
 併せて言えば、老齢化問題も環境問題も同様に、子孫の問題であると同時に我々自身の問題であるにも関わらず、それらを直視しようとせず、ただただ、現状に流されているということでしょう。

 では、「老人の陰の薄さ」にはどのようなものが起因するのでしょうか?
 個としての問題、社会システムとしての問題、そして老人・老後に対する日本人としての理念の問題があげられます。
 よく見てください。本当に環境問題と似ていませんか?
 特に日本人は「理念」という問題に対して能力がないのか、欠如しがちな問題です。
 こうした「理念」はどこから生まれてくるのでしょうか?
 教育でしょうか?文化でしょうか?宗教でしょうか?これらも、今となっては、単なる営利目的や手段としてのみに使われているに過ぎません。

 私が、これらを求めるべく着目しているのは、「家庭」です。
 世界は、「個」の集合体ですが、その集合プロセスとしては、先ず「家庭」をはじまりとして、地域→地方→国→世界といった形が考えられます。
 すなわち、世界、国家形成のコミュニティ形成の素は「家庭」と言うことができ、世界や国家を語るには、先ず家庭を通して見るのが最も的確な判断ができるのではないかと考えているのです。

 またもや、話は戻りますが、「老人の陰の薄さ」とうことに関して言えば、人間にとって必ずやってくる老いという問題に対して、「自然体としていかにその現実を本人も周辺も素直に受け入れられるか」ということが重要なのではないでしょうか。ですから、無理していつまでも気を張って生きる必要もないし、あきらめる必要もないでしょう。
 しかし、日本では、「若者に甘えすぎる老人と老人を無視する若者」というような、お互いの存在と権利・義務を軽んじる「なあなあ体質」という点に問題をはらんでいるのかもしれませんが・・・・・。
(これは、アメリカの元気な老人達の、感想からの提案です。家庭→地域→地方→国→世界
環境問題は先ず家庭から・・・。親がしっかり子供を育てようと努力する<これは単に学歴を付けさせようと言う事でなく>広い視野を持てる子供に・・。家庭を顧みないお父さんが増え、また家庭で影が薄くなりつつあり、この辺も問題かも知れません。今不況の世の中,そこまで手が回らないよ・・・と言う声が聞こえてきそうです。肥沃の土地には
それなりの作物が出来、砂場には出来ません。思うように子は育たない・・・所でも有りますね。これは、環境教育にも繋がりが有ります。)



 
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